村井さん、どうぞやすらかに

 一昨日(3/24)、村井吉敬さんの通夜に参列してきました。近親者のみというので、行くかどうかずいぶん迷いましたが、4月8日ではもうお骨になっているなと思い、ダメもとで出かけてみました。
 
 ご自宅にたどりつけるか不安だったのですが、下総中山の駅前で、たまたま通夜に出かける方とお会いして、無事たどりつきました。
 
 今は葬儀もすっかり商業化されていて、通常は業者がとりしきる世界になっていますが、村井さんのはそうではなく、本当に気持ちのある人が集い、見送る集まりでした。イグナチオ教会の神父の方やルービン・アビトさんが仕切り、いろいろな方からメッセージがありました。
 
 なくなる前の一か月あまり内海さんたちと自宅で介護に当たっていた佐伯奈津子さんが最後までオヤジギャグを飛ばしていたといっていたのがおもしろかったです。
 
 APEXの発足は、YABAKAとの協力開始でしたが、1986年に、当時LSP(開発研究所)の代表で、あとで協同組合相になるアディ・サソノ氏を村井さんから紹介してもらい、ジャカルタで面会した彼からもらったNGOリストの中にYABAKAがあって、それでYABAKAを訪ねるようになった、という因縁があります。
 
 その後、助成金をもらう時に推薦状を書いてもらったり、セミナーにお招きしたり、事務所開きに来てもらったりと、いろいろとお世話になるようになっていきます。APEXには、重要な行事には鶴見良行さんをお呼びする慣行がありましたが、94年に鶴見さんがなくなってからは、その役割を村井さんにお願いしていました。10周年、15周年、20周年、25周年と記念行事のたびにお招きし、昨年10月の25周年の国際会議では、シンポジウムの議長を努めていただきました。パネラーからの話の引出し方がすぐれていて、とてもいい議論にまとめていただいたと思います。その後、11月にも、適正技術人材育成研修最終回の講師にお招きしましたが、それが最後になりました。アジアの現場を、地をはうようにして歩き、<小さな民>の立場で発想していく流儀は、APEXの原点ともいえるものですが、それは鶴見さんや村井さんから学んだのです。
  
 通夜の中でも、村井さんがつくりあげてきた関係性の豊穣、とでもいえるものを感じました。亡くなったのは悲しいけれども、それは決して悲しいだけにとどまる悲しさではなく、アジアにかかわることの豊穣、人々とつながっていくことの豊穣にも開かれていく悲しさだと思いました。村井さん、本当にありがとうございました。どうぞやすらかにお休み下さい。