見田宗介著作集を手にして

 昨年の11月から、社会学者の見田宗介さんの著作集の刊行が始まりました。まだその一部を買って机の横に置いてあるだけで、なかなかじっくり読む時間がとれないのですが、連休に入って、やっと少しページをめくりました。
 見田宗介さん(本当は見田先生と呼ぶべきなのですが、仲間うちでは「見田さん」と呼んでいるので、ここでもそのように…)の書かれたものに初めて出会ったのは、60年代の終わり頃で、当時私はまだ高校二年生でした。その頃私は、この地球も、どうせいつかは(天体としての寿命が尽きて)消滅してしまい、何がどうなっても結局はみんななくなってしまうのに、今こうして生きていく意味、何かをつくりだそうと努力していく意味は何なのだろうなどと、ずいぶん青臭いことを考えたりしていたのです。当時、筑摩書房が出していた「展望」という雑誌があって、そこに真木悠介ペンネームで、見田さんの「人間的欲求の理論」という論文が出ました。そのタイトルに何か魅かれるものがあって、読んでみたのです。自由な想像力と卓越した構想力をもって、人間の欲求というものを構造的、多次元的に解き明かしていく、すばらしい内容でした。それを読んだ時、私の中で何かが開けたのです。それは、自分の思索的な人生のはじまりといってもいいようなことでした。
 ちょうどその頃、私が通っていた上野高校で学園紛争が真っ盛りでした。上野高校の学園紛争は、ずいぶんまじめで中身のある議論をするものだったのですが、クラスの中で議論した時に、この人間的欲求の理論の内容も紹介したところ、それがずいぶんと好感を持って迎えられました。
 見田さんの著作の最後には、よく、非常にスケールの大きい、その後の仕事のプログラムが出てくるのですが、この人間的欲求の理論の次に、希少性に関する論考が出るように書かれていました。それもすごくおもしろそうで、てっきり展望に連載されるものだと思って、次の号を今か今かと待ったのです。ところが、次の号には載っていませんでした。その次の月も、そのまた次の月も出ず…、結局その希少性の理論はとうとう今にいたるまで出ていないのです。
 その後、大学へ入り、私は工学部だったのですが、越境して教養学部の見田さんのゼミに出ていました。八王子のセミナーハウスでゼミの合宿があったのですが、その時の一部の学生の議論が、何か浮わついたものに聞こえ、私はこういう議論はきらいだといって、部屋にひっこんでしまったことがありました。その時、夜中に見田先生がわざわざ部屋に来て、私を呼び戻してくれたのを覚えています。
 それから石油会社に就職して、関西の製油所の現場で働き始めましたが、その頃出た、「気流の鳴る音」は、それまでの著作とまたずいぶん違った感覚で書かれたもので、それにも強い刺激を受けました。冒頭に出てくるマヤの一支族の聴覚の信じられないほどの鋭敏さや、アメリカインディアンの詩から引き出される解放のイメージが、鮮烈な印象でした。
 その後、大阪から東京へ移って、見田さんの私塾のような集まりに参加したり、インドに連れていってもらったり、見田さんに影響を受けて竹内レッスンを受けるようになったり、APEX発足のきっかけともなった連続ゼミナールにお呼びしたり…と、私にとってかけがえのない重要なできごとが続いていくのですが、長い話になるので、また機会をあらためてにします。
 今回の著作集は、見田さんのこれまでの仕事の全体を、あらためて見渡すことができるようになっていますが、そこに何か宇宙的なものを感じます。今から読むと、高校生の頃とは、またずいぶん違った見え方がするかもしれません。